縛りを滅したい
何をしたくて、何をしたくなくて、どう在りたいか、これは嫌、という区別が付かなくなって来てしまっている昨今。
常々、何かに没頭していなければいけないのだと自分を追い込んでしまって肩に力が入っていたような気がする。それは趣味でも娯楽でもなんでもない、義務感からくる強迫的な心への束縛であって、そんな事をしていても楽しいわけがない。
気持ち良いか良くないか、に重きを置いていなかった。
したくない事を我慢して踏ん張って行なっていると偉いだとか、自己肯定感に繋がる事を無理に詰め込んでも、確かに達成感は得られるかもしれない、しかし、それをしている時の自分というのは張り詰めた、自らが自らに対して気を遣ってしまい、捻出するほど煮詰まって息苦しい思いのままやり過ごしていたのかもしれないし、今もそうなのかもしれない。
それによって寧ろ自分という人間がなんなのか分からなくなって不安になったり、自己嫌悪に陥ったり、感性が乏しくなって、延々「わたしってなんだ?」という疑問が生まれてくる。そんなクエスチョンマークをグルグルと掲げながら何周も何周も頭の中を歩き回っていては疲れる一方でどれだけシンプルな事も小難しく捉えては掴めずにまた答えを見失う。
特に最近は「こういうのって自分らしくないな」と感じることが増えた。
「らしさ」なんてものは、その都度違うのに。
「らしくないからやめよう」というストッパーはまるで柔軟性に欠けるしひょっとするとあったかもしれない可能性をどんどん縮めて視野が狭くなりそのうち余裕が無くなって人に対する思いやりや優しさも破綻していく。
「こんなわたし」なんて悲観的になると認めてくれる人や環境に依存し続けて、認めてもらえるような自分で居続けないと消えて居なくなってしまうのではないか、凄く窮屈で、堅苦しくて、ハッキリ言ってしまえばそんな自分が気色悪い。
「好き」とか「嫌い」とか「楽しいこと」、「退屈なこと」が判別出来無くなったら、「気持ちいいこと」に意識を向ける。
メリハリや何を努めていきたいのかは、自分にとっての「安心できる快楽」という居場所を作ってからで良いのだと、考える事にした。11月14日、15時16分。
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2021,8,21
◆0:36
久方ぶりに派手に酔っぱらった。
空間の歪みを体感している。
どちらがこちらの世界で、さて、どちらがあちら側なのかと、
息を吸うたび、私の瞼の裏側に映る何もかもがわたしには、まるで関係のない事柄だらけ。
すべてが曖昧でありながら、なんと、色を持って、こちらに放ってくる感覚。
これは、きっと私が生きる上で一寸たりとも、姿を消してはくれないだろう。
輪郭でも影でもなく、ただ少し頭の中を悪戯されているだけなのかもしれない。用心せよ。
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2021,8,19
読んでいる本や、観てきた映画、どんな音楽を聴いていて、そのひとつひとつについてどんな風に思うのか、
それによって各々の為人が見えてくるような気がする。
そして他者と自分との波長の合う合わないが、だいたい見極めがついてしまうものだから、
はて便利なのか?先入観から遠のけてしまったりもするので、プラマイゼロかな?
と、物思いに耽っていた。
◆お米を研いでいる時間が好きになった、以前は無洗米だったけども、
米ぬかをザーと流していく、だんだん白い濁りがなくなっていく、おまけにお米を研いだ後には爪の先から手のひらいっぱいが潤って、
それがとても気持ち良くって、良い時間だなぁと思う。
家事は苦手、でも終えると視界が開けて、次の作業に対して真摯になって、いくら散らかっていようが、すましていられるみたい。
あれもこれもとやっていくよりは、1つのことをやっているとき、そこだけにピントを合わせて、納得がいくまで行動していると、つい時間を忘れてしまう。
そうは言っても、最近はなんだかすべてにおいて、おざなりというか、雑な部分がモロに浮かび上がって、思考すらも詰まってしまいがち。
思考が詰まると、行動へ移すのにもかなり時間を要する。そうしてサボったぶんが蓄積されればされる程、やる気が湿気てフニャフニャとくたびれてしまう。
そうした怠惰によって熟しまくった部分、果物ならばゆっくり煮込んでジャムのようにしてしまえるのに・・・(そうこう考える前に少し動きなさいよ)
2021,8,20
◆昨夜は21時には眠りに就いていた。
8;30に起床して、スマホをチェックしたら、友人から、大量に余ったお香を貰ってほしいとLINEが来ていたので、
勿論、YES!と即答して送って頂けることに!
それでもう私のテンションはかなり、あげぽよ(死語)なわけだが、更に(その友人に)恋人が出来たとの報告を受け、
いったんスマホを置いて、「やった~!やったね!〇〇ちゃん!」と、両手を上げて背筋を伸ばすと、部屋中に幸せな空気が充満した。
なんと素敵な朝!
今日、もしも、自分ひとりでは受け止めきれないくらい嫌なことが起こっても、この気持ちを巻き戻して、良い色で塗りつぶしていこうと思いました。
ゆっくり生きよう。
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2021,8,19
・朝方書いた日記がすべて文字化け、怪文書にも及ばない。
◆17:10
職場から帰宅、足湯用のバケツがすでに届いていることを希望的憶測から勝手に舞い上がっていたのだけど、 Amazonを開くとまだ配達中とのことで、またも少しげんなりする。
仕事は楽しかった、Photoshopの事、少し、ほんの少しだけ理解出来てきた気がする。 コツを掴むべく今日は実践+直感的に作業を進めていた、早く手に馴染むと良いな。
◆音楽療法とやらにハマっている、私は割とスピリチュアルだのアファメーションだのに影響を受けやすい。 高校時代からの友人には”イタコ系女子”と呼ばれていた程。
目に見えないものに惹かれる、以前は、目に見えないものと戦うしか術がなかったというのに いまは長らく力んで喧嘩腰だった自分とはまるで違うように思える。 棘の先が丸まって、ちいちゃくなったのかもしれない。 いい加減尖った生き方に疲れてしまった。(というか、飽いた)
瞑想なんかは本当に凄く良くて、今朝方は瞑想用のBGMを延々流しながら20分弱目を瞑って呼吸に集中していたが、 出勤時間が差し迫っていなければずっとずっとそうしていたいと思った。 単純に気持ちが良い、目を開いて手をグーパーしたり身体をぐっと伸ばす(消去動作)をすると、頭がスッキリして目がさえる。
◆18:00
足湯用のバケツが届いた、ふくらはぎまで浸かるにはかなり重たいので、うっかり湯を零しまくってしまった。 くるぶし上程度までならまぁ持ち運んで、作業中にも浸かることが出来る。 ”ながら”で自律神経が整ってくれたら本当に有難い。
・少し、休むことに集中して、くたびれないように、夜にはグッスリ眠りたい、朝には大好きな植物の水やりというイベントがある。 半日間、特別なんともなくて良かった。ズボラで映えない毎日でも、搾取されず、しおれずに生きよう。
記録
久しぶりにブログを書く。最近のわたしはわりかし上手いこと進んでいる、時には挫けて誰に用意された訳でもない多量の糸にぐるりと絡め取られて動き出せなくなったり、しかめっ面をしたり喚いたりして恋人を困らせたり、又自らも自己嫌悪に陥ったり……という所謂”病状”は相変わらずだ。でもその都度、沢山の事を知ったり、衝突した際に生じる”音”に気づくことの大切さを感じられるようになったと思う。「悲しいことを悲しいまま終わらせない、引き摺らない」、常々自分自身にそう言い聞かせているので以前に比べて立ち直りが大分早くなった。今、わたしを支えてくれているパートナー(恋人)との出会いからかなり様々なことが好転している。それをお互い感じているように思って口に出して言ってみたとき、「俺こそありがとう」とニコニコして頭を撫でてくれる存在が堪らなく愛しくて大切だ。そういうことを不意にというか、いつも何度も反芻して思い出すのだけれど、今日はそれをここに書いて残しておきたくなった。めげたり、シラケたり、泣き出したくなったとき、この文章を読もうと思う。
光
恋人が帰ってしまって寂しいのと、自分が何かに押しつぶされそうでなんだか気が塞ぐので、光を集めに行ってきた。どうしようもないときは少しずつどうにか持ち直すしかない、自分の指が自分の指でないような気になったり、点と線がごちゃっと絡まって繋がらなくても、どうせわたしは生きていくのだから、それなら、綺麗なものをなるべくは眺めて過ごしたい。