縛りを滅したい

何をしたくて、何をしたくなくて、どう在りたいか、これは嫌、という区別が付かなくなって来てしまっている昨今。
常々、何かに没頭していなければいけないのだと自分を追い込んでしまって肩に力が入っていたような気がする。それは趣味でも娯楽でもなんでもない、義務感からくる強迫的な心への束縛であって、そんな事をしていても楽しいわけがない。


気持ち良いか良くないか、に重きを置いていなかった。

したくない事を我慢して踏ん張って行なっていると偉いだとか、自己肯定感に繋がる事を無理に詰め込んでも、確かに達成感は得られるかもしれない、しかし、それをしている時の自分というのは張り詰めた、自らが自らに対して気を遣ってしまい、捻出するほど煮詰まって息苦しい思いのままやり過ごしていたのかもしれないし、今もそうなのかもしれない。

それによって寧ろ自分という人間がなんなのか分からなくなって不安になったり、自己嫌悪に陥ったり、感性が乏しくなって、延々「わたしってなんだ?」という疑問が生まれてくる。そんなクエスチョンマークをグルグルと掲げながら何周も何周も頭の中を歩き回っていては疲れる一方でどれだけシンプルな事も小難しく捉えては掴めずにまた答えを見失う。

特に最近は「こういうのって自分らしくないな」と感じることが増えた。
「らしさ」なんてものは、その都度違うのに。
「らしくないからやめよう」というストッパーはまるで柔軟性に欠けるしひょっとするとあったかもしれない可能性をどんどん縮めて視野が狭くなりそのうち余裕が無くなって人に対する思いやりや優しさも破綻していく。

「こんなわたし」なんて悲観的になると認めてくれる人や環境に依存し続けて、認めてもらえるような自分で居続けないと消えて居なくなってしまうのではないか、凄く窮屈で、堅苦しくて、ハッキリ言ってしまえばそんな自分が気色悪い。

「好き」とか「嫌い」とか「楽しいこと」、「退屈なこと」が判別出来無くなったら、「気持ちいいこと」に意識を向ける。

メリハリや何を努めていきたいのかは、自分にとっての「安心できる快楽」という居場所を作ってからで良いのだと、考える事にした。11月14日、15時16分。